全国シェア60%の姫路の油菓子

姫路の菓子が全国に名を知られるようになったのが、江戸時代の後期からといわれている。この頃の藩主酒井家の歴代の当主が教養人であり、茶の湯を好んだことから、姫路城下の文化は大いに発展することとなった。
しかし、天保年間の藩主酒井忠以の頃、藩の財政は窮乏し、負債額は約73万両にも及んだため、家老の河合寸翁は藩の財政再建を志し、藩政改革を行うとともに、農工業を振興し、木綿会所を開設するなど、木綿、小麦粉、菜種油、砂糖など諸国の物産を城下に集積して商業、物流を盛んにした。
この寸翁が藩主同様茶人であったことから、産業振興の一環として和菓子づくりを奨励し、修行のため藩命により職人を江戸、京都、長崎まで派遣し、製造技術を習得させた。
この時、職人達の持ち帰った技術が姫路の菓子づくりの原点となった。
姫路の菓子を特色づけるものとして、油菓子、カリントウがある。油菓子は、ポルトガル、オランダ船により、長崎に伝えられたものが全国各地に広がったものであるが、姫路では、藩主酒井忠以の時代以降、藩の援助育成のもと、また、各地から集積された良質の小麦粉、菜種油などを活用することにより、「姫路駄菓子」として全国にその名を馳せることとなった。
昭和初期までは、姫路市内の船場本徳寺の門前に駄菓子屋が軒を連ね、大変な賑わいであったが、戦災によりすべて焼失したため、製造業者も市内各地に分散してしまった。しかし、戦後、消費者の嗜好の変化により、他の地域の業者が次第に減少していく中、姫路の製造業者は、生産の機械化、合理化を図り、後継者、技術者の育成に努めた結果、現在、駄菓子では全国の約60%のシェアを占めるに至った。
菓子の生産は、消費者の嗜好に左右される性格が強いため、常に、製法、品質、デザインなどの新しい技術の開発が要求される。姫路の菓子は、江戸時代以来の伝統を活かすと共に、近年では、洋菓子部門も充実させるなど消費者ニーズに応えている。
また、1952年に設立された姫路菓子同業組合を中心に、原材料の共同購入や技術者養成講座の開催、品質の向上や販売方法の研究等に努めるほか、4年毎に開催される全国菓子博覧会に積極的に出展し、毎回、名誉総裁賞をはじめ多くの賞を受けるなど、産地全体としての発展に取り組んでいる。



